歴史

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 藤原道長の没後、長元3年(1030年)に、その長女である国母上東門院彰子の発願によって、道長建立の法成寺の一郭に常行三昧堂が創建されました。法成寺境内の東北にあったことから、「東北院」と呼ばれています。開山は天台座主の慶命大僧正です。晩年住処とした「東北院」が、上東門院彰子の別称となっています。

 永承5年(1050年)10月13日に、後冷泉天皇が「東北院」にいる母親代わりを務めた祖母の上東門院彰子に会うために行幸しています。 天喜6年(1058年)2月23日に発生した法成寺の火災で、「東北院」も全焼しました。その後、法成寺の北側の新たな土地に再建され、康平4年(1061年)7月11日に再建供養が行われました。康平7年(1064年)に、後冷泉天皇が新造の「東北院」に再度行幸しています。

 室町時代には、七福神信仰の高まりとともに、桓武天皇の勅命で伝教大師(最澄)が彫ったと伝わる「大弁財天」が人々の崇敬を集めました。その後、応仁の乱で焼失し荒廃しますが、永禄2年(1559年)に、時宗の僧の弥阿が再建に努めました。元亀元年(1570年)の戦火で再度焼失しますが、正親町天皇・後陽成天皇の綸旨を承って諸国を勧化して(仏の教えを説いて導き、御寄附を募って)再建されました。

 江戸時代の『時宗藤沢遊行末寺帳』には総本山清浄光寺(遊行寺)の末寺として登場しており、時宗に改宗していたことが分かります。元禄5年(1692年)12月1日の火災で再度焼失し、翌元禄6年(1693年)に上東門院彰子の子どもである後一条天皇の菩提樹院陵の正面に位置する現在地に移されました。明和7年(1770年)に、安津宮御所を御寄附されたものが現在の建物です。

御本尊

 延暦13年(794年)に、50代桓武天皇が平安京の表鬼門の守護神について、伝教大師(最澄)にお尋ねになられたところ、「大弁財天女」がよろしいでしょうと答えられました。そこで、桓武天皇の勅命を受け、伝教大師(最澄)が彫ったと伝わる「大弁財天」を御本尊としてお祀りしています。

藤原道長像

 長保二年(1000年)、藤原道長は長女の彰子を一条天皇(66代)の中宮(皇后)とし、一帝二后の制を始め、長和元年(1012年)三条天皇(67代)が登位すると二女の妍子をその中宮(皇后)としました。その後、三条天皇が眼病を患うとそれを理由に譲位を迫り、長和五年(1016年)彰子が産んだ敦成親王を登位させ、後一条天皇(68代)の外祖父として摂政に任じられました。寛仁二年(1018年)、三女の威子を後一条天皇の中宮(皇后)とし、彰子は太皇太后、妍子は皇太后、威子は中宮(皇后)となり、道長は三后の父となりました。そして、威子の立后の日、同年の十月十六日(旧暦)・十一月十六日(新暦)、喜びのあまり「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」(この世は私のためにあるようなものだ。この満月のように何も足りないものはなく、すべて私の意のままに満足すべきものである。)と詠み、権力の絶頂に達しました。

 本堂にある「藤原道長像」は、いかにも時の最高権力者としての威厳が漂っています。そして、威子の立后の日から十年後の万寿四年(1028年)、道長は法成寺内の九体阿弥陀堂(無量寿院)の九体の阿弥陀如来の手と自分の手を糸で繋ぎ、北枕西向き(お釈迦様のように)に横たわって、念仏を唱えながら西方浄土に導かれることを願い亡くなりました。当院内には道長の供養塔があります。

愛染明王

 「愛染明王」は、愛することの苦しみや迷いがそのまま悟りとなり、愛をもって解脱へと導くといいます。一条天皇が崩御された時に「逢ふことも 今はなきねの 夢ならで いつかは君を または見るべき」(逢うことも今は現実にはあり得ず、泣き寝入りして見る夢で逢えるばかり、そんな夢ではなしに、いつかあなたに再会できるのでしょうか。)と詠んだ藤原彰子(上東門院)の霊を慰めるために、

 また、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王との身分の違いを超えた熱愛、為尊親王が早死後、今度はその同母弟・敦道親王の求愛を受けた恋多き歌人で、後に藤原彰子に仕え「あらざらむ この世の外の 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」(私はまもなく死んでしまうでしょう。せめてあの世へ持っていく思い出に、もう一度だけあなたにお逢いしたいのです。)と詠んだ和泉式部の霊を慰めるために、

 この「愛染明王像」が本堂にお祀りされています。

和泉式部と軒端の梅

 本堂の脇には、上東門院彰子に仕え、院内に住んでいた歌人・和泉式部が植えたと伝わる白梅の老木『軒端の梅』があります。「鶯宿梅」としても知られています。

 室町時代の謡曲『東北(とうぼく)』は、世阿弥元清の作で、鬘物で幽玄を基調としています。簡単なあら筋は、「年が改まり、春が来て、東国より行脚の僧がこの『東北院』を訪れ、梅の木のあまりの美しさに魅了され、その由来を尋ねてみると、その昔、上東門院に仕えた和泉式部が手植えし、寵愛した『軒端の梅』であると聞いて、感激を新たにします。僧が木陰に坐って法華経を唱えて供養していると、朧月夜の闇の合間から和泉式部の霊が現れて昔日の『東北院』での生活の様子を語り、詠歌の功徳を説いて歌によって得た仏道を語って消えます。(御堂関白道長が、牛車の中で法華経を高らかに読みながら門前を通りかかったので、和泉式部はその声を聞いて、『門の外 法の車の 音聞けば われも火宅を 出でにけるかな』(門の外で法華経を読む声を聞いていると、私もその車に乗って、燃え盛る家のように不安や迷いに満ちたこの世から、出て行ける気がしますと詠み消えました。)旅の僧が夢からさめると仄かに梅の香りが漂っていました。」というのもです。

 また、『和泉式部続集』に「むめの香を 君によそへて みるからに 花のをりしる 身ともなるかな」(梅の香りをあなたの袖の香りになぞらえて眺めていたら、梅の花が咲く時節を知る身となりました。)があります。
 当院内には和泉式部の供養塔があります。(向かって右は藤原道長の供養塔です。)

供養塔

雲井の井戸

 弁財天の原語は「水の女神」という意味があります。当院の庭の池水を雲水と称し、一度洗い清めた者は悪鬼邪魅の災いを払うと伝わります。当院は再三兵乱により移転しましたが、尊天の遷座するところに雲水が湧き出し、誠に奇異の名水と伝わっています。

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